「酷暑」の名にふさわしい日差しの中で、オリンピックが各地で開催されています。
テレビ画面から飛び込むアスリートの全力で挑む姿に、思わず手と眼は釘づけになっており、新種目の解説に、こんなに知らない競技がオリンピックにあるのかと、新しい世界が広がる連日です。
今年、無観客の開催だからこそ、サポートしているチームメンバーや裏方の人たちの動きにも眼が及び、彼らの一心と競技への思いが伝わってくる。
それぞれの競技の瞬間のために、風をよみ 波をよみ 手汗をよみ、心をよんで 挑む。
先の結果は誰にもよめないことも待ち受けており、勝者の涙も敗者の涙も、どちらもここまでの足跡から生まれている。
荒波の中で競うサーフィンチームにも13歳の選手を支える周囲の健闘と笑顔に花束と金メダルを差し上げたい気持ちになります。
一方「まさかの〇〇!」の実況が心にズシンと響く。
オリンピックが終わったあともテレビには映ることのない、それぞれの自分の日常ドラマがいつもどおり続く日々ですが、誰もが予想できないものに動かされながら、この先も歩むことはすべて 「まさかの〇〇」がどこかにあるものです。
楽観的になれないこの社会情勢の中で、背中に小さな緊張を 時には走らせながら “坂村真民”の詩を心にとめて 暮らしたいと テレビの向こうにたくさんのエールを送りながら 改めて感じます。
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「花は一瞬にして咲くのではない」
詩人 坂村真民(さかむらしんみん)
花は一瞬にして咲くのではない
大地から芽から出て葉をつくり、葉を繁らせ、成長して、
つぼみをつくり 花を咲かせ、実をつくっていく。
花は一瞬にして咲くのではない。
花は一筋に咲くのだ。
すべての人が幸せを求めている。
しかし幸せというものは そうやすやすとやってくるものではない。
時には不幸という帽子をかぶってやってくる。
だからみんな逃げてしまうが、実は それが幸せの正体だったりするのだ。
雑魚は雑魚なりに、大海を泳ぎ。
我は我なりに、大地を歩く。
生も一度きり、 死も一度きり、一度きりの人生だから、
一年草のように、独自の花を咲かせよう。
花は一瞬にして咲かない。
大木も一瞬にして大きくはならない。
一日一夜の積み重ねの上に その栄光を示すのである。
川はいつも 流れていなくてはならぬ。
頭はいつも 冷えていなくてはならぬ。
目はいつも 澄んでいなくてはならぬ。
心はいつも 燃えていなくてはならぬ。
本気になると世界が変わってくる。
自分が変わってくる。
変わってこなかったら、まだ本気になっていない証拠だ。
本気な恋、本気な仕事。
ああ、人間一度は こいつをつかまないことには。
日の昇るにも手を合わさず、 月の沈むにも心ひかれず、
あくせくとして 一世を終えし人の いかに多きことぞ。
道のべに花咲けど見ず、梢に鳥鳴けど聞かず。
せかせかとして 過ぎゆく人の いかに多きことぞ。
二度とないこの人生を いかに生き いかに死するか、
耳をかたむけることもなく うかうかとして、老いたる人の
いかに多きことぞ。
川の流れにも風の音にも 告げ結う声のあることを
知ろうともせず、
金に名誉に地位に狂奔し 終わる人のいかに多きことぞ。
咲くも無心 散るも無心
花は嘆かず 今を生きる
一難去って また一難。でも思えば、この難によって、
念が鍛えられ、念の花が咲き、念の実が熟するのだ。
一番恐ろしいのは、自己との妥協だ。
おのれが 尊いのではない。
おのれを おのれたらしめるものが、
おのれのなかにあるから 尊いのである。
だからこの
おのれたらしめるものを 見出さなくてはならぬ。
自覚しなくてはならぬ。
そのことなくしては、人は人としての ねうちがあるとは言えない。
木が美しいのは、
自分の力で立っているからだ。
最高の人というのは、
この世の生を、精いっぱい、力いっぱい、命いっぱい、生きた人。
少食であれ!これは健康のもと。
少欲であれ!これは幸福のもと。
この二つのものをしっかりと身につけよう。
この世を悔いなく終わるため。
この世を楽しく生きるため
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